3月が終わる。
年度終わり。大人も子どもも、節目の季節。
学年があがる。卒業する。
進学する。就職する。人事異動がある。
出会いと別れを繰り返しながら、人生の豊かさと自分自身の見識を深め広げていくんだなぁと改めて思う。
どうも皆様こんにちは、またはこんばんは。
そしておはようございます。
シンガーソングライターのアキラです。
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そんなこんなで私、
誕生日でした。34歳になりました。
祝ってください。それはもう盛大に。崇め奉ってください。年に一回だけ。
もう過ぎたけれど。
3/20が誕生日当日だったわけだが、今年もやりました。全曲ライブ。
3周年から始まった毎年恒例全曲ライブ。
3年目は70曲で7時間。
4年目は126曲で12時間。
今年はなんと、147曲で15時間…。
激務。まさに激務である。言ってしまえば15時間労働。立ちっぱなし歌いっぱなし。我ながら感動の完走だったと思う。
しかし、自分自身よりも大変だったと思われるのはスタッフとお客様だ。お客様は8時オープン。スタッフと私はなんと6時半入りである。さらに前日準備が終わったのが夜中の2時頃。
「ん?さっきまで準備してたよね?」
という感じである。いやはや、それはもう最高潮な愛に支えられたイベントだった。絶好調真冬の恋スピードに乗って急上昇の熱いハートは溶けるほど恋しそうだった。ゲレンデで。
感謝はもちろんなのだけれど、改めて自分の作った曲たちを全曲歌って想ったこと。それは、
「感情と経験の数だけ曲がある」
ということだ。
もちろん実際には作曲依頼を頂いて作った曲なんかもあるわけだから、厳密に言うとその限りではないのかもしれないけど、やはり「その時の自分の感情や考え方」を表現した曲が大多数である。それらの歌詞をひとつひとつ振り返りながら歌っていると、なんだか古いアルバムを開いたような、自分の秘事を綴った日記を読み返しているような、甘酸っぱくほろ苦い、それでいてやみつきになるような不思議な気持ちになったりする。
人は誰でも、日々様々なことを考えて生きている。
仕事がうまくいかなくてつらい。
仕事がうまくいって嬉しい。
振られて悲しい。
想いが通じて嬉しい。
暑いも寒いも、眠いもしんどいも。
お腹空いたもさみしいも会いたいも。
満たされたって満たされなくたって。
脳内は常に情報で溢れている。
目まぐるしくページが切り替わるスライドショーのように。横を向くだけでまったく違うタッチの絵が飾られているアトリエのように。
その全てを切り取って形にすることができたら、たぶんきっと私の人生は「楽曲」という形だけで表現することができる。そんなことを考えながら、きっと34歳の私も曲を書き続けるのだと思う。
さてさて、では今回は、そんな私の音楽人生のスタートラインのお話。当時の相方とギターの練習を初めて、しばらく経ったあとのこと。
前半はこちらを読んで頂きたい↓
「34年」と「5年」【SSWアキラのアキラめない日々:2】
中学二年。当時の相方と二人で数曲合わせられるようになってからは、公園で練習するのもあまり人目が気にならなくなったし、仲の良い友達数人の前でくらいなら演奏できるようになった。そんな頃。
天気のいいある日。
二人で少しだけ足を伸ばしていつもとは違う公園で練習しよう!という話になり、アキラ少年は意気揚々と自転車に跨がった。まだまだ地元の範囲内ではあるが、いつもより大きな公園だ。ちょうどその日はちょっとしたお祭りがあり、人通りも多かった。
思っていたよりも人が多いことやいつもと違う環境に少しびくびくしながら練習をしていると、一人のやんちゃそうな兄ちゃんが声をかけてきた。
「なんやおまえら、ギター弾いてん?」
茶髪でピアスで咥えタバコで肩を揺らしながら歩くその姿は、まさにヤンキー。ヤンキーオブヤンキーである。目立ちたがりの割に小心者の私は、
「なるほど。どつかれたのちお金を払うんですねわかります。」
とすぐに蛇に睨まれたポメラニアン体勢をとった。しかし、このヤンキーオブヤンキーは意外な事を言った。
「俺もギターやってんねん。ちょっと貸してや!」
にこやかにヤンキーが歩み寄ってくる。仮に、タツオさんとしておこう。このタツオさんは、後に仲の良い先輩になるわけだが、この時はもう「風貌なんとかして!」と泣きつきたくなるほどにヤンキーだった。
びくびくとギターを渡すと、これがもうなんとまぁ軽やかに奏でてくれた。自分のギターはこんな音がするのか。今まで私が弾いていたのはなんだったのだ、と。ギター初心者中学生の私は、びくついたポメラニアンから一気に好奇心丸出しの豆柴に変化した。
一頻り私たちのリクエストに答えてくれたり、ちょっとした小技を教えてくれたり、タツオさんはとても優しかった。全てを独学で進めてきた私たちにとって、タツオさんは初めての先生になってくれたわけだ。
「なにしてるん?時間やで」
急に声が聴こえ、後ろを振り向くと、ガタイの良いこれまたヤンキーな兄ちゃんがいた。幅広のズボンを履き首にタオルをかけて咥えタバコで…ガテン系といわれるヤンキーである。
ベスト・オブ・ガテン系ヤンキーである。
タツオさんがにこやかに手を振る。ヤンキーは仲間を呼んだ。ポメラニアンはまた小さくなっていた。
話を聞くと、二人はアコースティックギターで二人組ユニットとして活動しているらしい。
なんか違う。私の想像していたアコースティックミュージシャンとなんか違う。
私は思ったが決して口には出さなかった。
今日この公園で行われる祭りでステージの出し物があり、ヤンキーズはそれに参加するのだそうな。実は私はこの頃、学校行事以外で音楽ステージを見たことがなかった。出番はもうすぐらしい。ギターを背負った豆柴は一目散にステージの方へ走った。
その公園には、けっこう立派なステージがある。いつもは学生や小さい子たちの溜まり場になっていて、集まってお菓子を食べたり鬼ごっこをしたりしている場所であるが、この日はマイクスタンドやアンプが設置され、ちゃんとしたステージになっていた。
ドキドキしながら見ていると、タツオさんたちがステージに上がってきた。軽く挨拶をして、歌い出す。
めっちゃかっこいい…。
尻尾を千切れんばかりに振り乱した私は、素直にそう思った。なんて楽しそうなんだ。なんてかっこいいんだ、と。食い入るように見つめる私は、どの曲もノリノリで聴いていた。MCも聞き逃すまい!と身を乗り出していると、タツオさんはマイクを握ってこう言った。
「次が最後の曲で、最後は自分たちの曲をやります」
なん…だと…。
自分たちの曲?自分たちの曲…とは…?
作ったのか?この人たちは、プロなのか?
そうなのである。ギター初心者の少年にとって、「ギターを弾く」というのは、もともと知っている曲を練習するのが当たり前。自分で一から作る、なんて発想自体が存在しないのだ。
自作だというその曲は、とてもノリの良いポップナンバーだった。そこで私たちは衝撃を受けた。オリジナルソングを作る!という発想に。
そこから、オリジナルソングの作曲が始まった。見よう見まねとはまさにこの事であるが、コード進行を何パターンか練習していると、意外となんとかなるものである。それっぽい形のものがたくさんできてきた。
ちなみに、私が人生で一番始めに作った曲は「はじめの一歩」という曲だった。歌詞の内容は、
「熱くならなくていい。人生まだまだこれからだ」みたいな曲だった。
当時中学二年である。お前が言うな、と。
それからというもの、二人はオリジナルソングの作成をぐいぐい進めて、クオリティはさておき曲数出揃った。
今思えば、歌詞カードをぐちゃぐちゃに丸めて船に乗り遠洋に投げ捨て、拾われないか心配になり海を一日監視しながら生涯を終えたくなるような恥ずかしい曲ばかりであったが、それでもなんとか音楽ユニットとしての活動の下準備が整ってきたのである。
私の作曲人生は、たぶんここから始まった。
ず〜っと歩いてきたけれど、まだまだ続いていくから、まだまだ歩いていきたいなぁ。
また、続きはいつか書こうと思います。
今回はこの辺で!
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文:アキラ(大阪を拠点に活動中のシンガーソングライター。最新情報は下記SNSをチェック!)
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