
諸事情ありまして、先週お休みさせて頂きました。また今週もよろしくお願い致します。
どうも皆様こんにちは、またはこんばんは。
そしておはようございます。
シンガーソングライターのアキラです。
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さてさて、連日たくさんのエンタメ現場に関わらせて頂いて、こうして様々な形で発信の場を頂いて。あぁ、繋がりって大事だな。生かされてるなって思うのです。本当に感謝しかない。
いつもありがとうございます。
「言葉にしすぎると薄っぺらい」とか言いますが、
いやいや、薄っぺらく感じるのであれば何度も何度も何度も何度も重ねればいいだけの話。どこまで剥いてもそれしかなくて、どこまで破れてもそれしか残らない。
私にとっての「感謝」とは、そういうものだ。
ついこの前呼んで頂いたライブで、
「愛」ってなんだ?
という話をしまして。
私にとっての愛とは、
「その人のことを想い、なにをどこまでできるか」
ということだと思っている。
自分のことなど二の次三の次で、掛け値なしにその人のことだけを想って行動すること。なんだか言葉にしてしまうとえらく重たい人になってしまう気がするけれど、愛情の説明なんてそれ以上もそれ以下もない。
人に向けた感謝も一緒。
その人のことを想う気持ち。
だから自分はここに存在していて、だから私は生かされている。
なんだかそんなことを毎日考えている。
なぜそうなのか。
自分の中では明確に答えがある。
今日は、そんな自分を振り返る話。
この話は、加筆修正も多少あるが、昔書いたブログからの転載である。もちろん読んだことのある人もいるだろう。賛否両論もあるだろう。でも、今から「アキラ」を知る人や、最近「アキラ」を知った人にも、できれば知っておいてほしいと思う事。
思い出を紡ぎながらひとつひとつ重ねても、たぶんきっと、今の自分以上のものにはならない。
だからこそ、誰かになにかを伝える時には、身の丈以上のことを伝えようとしなくていい。
受け取り方はそれぞれで、あなたの思うままに受け取ってくれたならば、私はそれで満足だから。
定期的に掘り返す話ではあるが、今の自分からも切り離すことができない大切な部分だったりするので、ちゃんと振り返っておこうと思う。
少し長くなるけれど、よろしくね。
その昔、私は鬱病だった。
数年間の闘病生活があったわけだが、今だからこそ、聞いてほしい。
今回はそんなお話。
中学生の頃から考えていた「福祉業界で働くこと」を目標に高校の専門学科に進学した私は、高校卒業と同時に高齢者施設に就職し、新米介護福祉士として働き出した。
新卒一年目のフレッシュピカピカだった当時、元相方とライブ活動を続けている中、あるきっかけでコミュニティFMのレギュラー番組を担当することになる。
今思えばありがたい話であるが、社会に出て一年目で私の生活は激変した。
新社会人としての仕事。
音楽活動の急速な広がり。
そしてその他プライベートな、いろいろ。
全てが重なって私は弾けた。
その当時のことはあまり覚えていないが、なんだか集中力がなかったり、いつも歌っている定番のはずの歌詞が出てこなかったり。ふとした時に幽体離脱しているような、自分自身を俯瞰している視点があったり。とにかく
「ん?なんだかおかしいぞ?」
くらいには何かを感じていた。
しかし、自分では「なんだかおかしいぞ」くらいのものであったので、脳内会議の結果、
「たるんでるだけだから、もっと頑張れ」
となった。
単純である。できないことがあるならもっと頑張ればいい。その時の私は本気でそう思っていた。
初めに異変に気付いたのは、当時付き合っていた彼女だった。後の彼女曰く、自覚はなくとも
「どう考えても病院に行ったほうがいい」
という状態だったらしい。彼女は、散歩を嫌がる豆柴のような私を引き摺って病院に連れて行った。
正直に言うと、やはり心療内科というものに対してかなりの抵抗があったし、なんとな〜く「甘えたら負け」のような気がしていた。だからして、病院に行くのも非常に嫌がった。もちろん、その当時は、である。
病院に言って、先生と話をする。内容にはあまり触れないが、全て正直に話した。するとすぐに先生は、
「とりあえず三日間だけ、お仕事休みましょう」
と明るい声で言った。当時まだ働きだして一年とちょっとくらいのペーペーである。職場には怖い先輩だっているし、やらなきゃいけない仕事も任された仕事も山ほどある。嫌だ嫌だと駄々を捏ねる私に、先生は笑顔で優しく答えた。
「休んだって誰かがやるから。仕事に殺されるよりマシでしょ?」
と。
今でも忘れることのできない。
大切な大切な言葉だ。
そう言われた私は、思い切って休むことにした。
その時は予想もしていなかったが、ここからが、これから続く長い長い闘病生活の始まりだった。
頑張って当時を思い出すのだけれど、やっぱり思い出せないことが多くて。読みにくかったらごめんなさい。
さて、異変を察し(正確には周りの人が)心療内科に通い出したのは、19歳〜20歳くらいの頃だった。初めに医者に言われて休むことになった病休の三日間。とりあえずはなんとなくぼ〜っと過ごした。当時はすでに実家から離れ一人暮らしをしていたので、まだ報告するべきではないかなぁくらいに考えていた。
一週間に一回の通院。少しだけ休んで、もう一度出勤。しかし、状態は一向に改善されなかった。
なんとなく集中力がないなぁといった自覚症状しかないと思っていたのだが、どうやら周りの人からするとそんな状態ではなかったらしい。一週間の病休。三日くらい出勤して一週間病休。初期段階はそんなリズムで過ごした。当時担当していた生放送のレギュラー番組も、なんとか続けられていた。
そのうち、病休が続くほどにだんだん自分が恥ずかしい存在に思えてくるようになった。
「もっと頑張らなきゃいけない」
「もっとやらなきゃいけない」
「甘えグセがつく前に動け」
「迷惑をかけるな」
「人一倍頑張れ。できそこないのくせに」
だんだん、じわじわと、確実に心の声は大きくなっていく。焦りとは裏腹に、心はまったく置いてけぼりになっていた。この頃から、どこに行くにも、病的なまでに肌見離さず薬を持ち歩くようになった。
外に出ると冷や汗が出るようになって、寒気に身体が震えるようになった。
人と目を合わせられなくなって、目線が宙を泳ぐようになった。
話す言葉が理解できなくなって、テレビのノイズのように聞こえるようになった。
自分自身が、汚らわしい存在だと思うようになった。
もうダメかも、と思った。
辛うじて繰り返す日常の中で、初めて手首に傷をつけた。小さな小さな、今思えば少し引っ掻いた程度の傷だった。それでも、なんだか少しだけ気持ちが楽になった気がした。
それからと言うもの、私は自宅でも職場でも自傷を繰り返すようになった。大小無数の傷をつけ、手首には常にリストバンドをつけるようになった。スタッフは気付いていたけれど、見てみぬふりをしてくれていた。
今思うと、私は死にたかったわけではない。
ただ、
「その気になればいつでも終われる」
という、後ろめたい勇気と安心が欲しかった。
内服で誤魔化しながら、短い病休と数日の出勤を繰り返す毎日。もはや全然覚えていないが、たぶん4ヶ月くらい続けていたと思う。
ある日私は、どうしても気持ちがしんどくて辛くて、人目に触れるのが嫌で、いつものようにカッターを握って職員トイレに駆け込んだ。
その時の事は、割りとしっかり覚えている。
私は、振りかぶったカッターを左手首めがけて振り下ろした。
そう、読んで字の如く。振り下ろした。
狭いトイレの個室の中。映画や漫画のように、飛び散るとまではいかなくとも、もう隠しようがないくらい血が流れた。白い便器も床も自分自身の腕も。赤く、生温かく濡れた。
その頃にはもう、心の傷も身体の傷も、自分だけではどうしようもなくなっていた。
仕方なく私は、手首を押えて仲のいいナーススタッフに処置をしてもらった。幸い、想像したより傷は浅く、大事には至らなかった。
この時点で私は、そうとう壊れていたのだと思う。そこから、長い病休に入った。通算で一年半、仕事を休んだ。
まだまだ、自分との戦いは始まったばかりだった。
勘違いしてほしくないのだけれど、私はこの話に同情してほしいわけではないし、憐れんでほしいわけでもない。なんなら今はもう笑い飛ばしてもらって構わないとさえ思っている。
ではなぜ突然こんな話を始めたかというと、私はどのような人間で、本当はなにを伝えたくて歌っているのかを知ってほしかったからだ。
どうか、私のこの話を読んだうえで、もう一度私の曲を聴いてみてほしい。いつも聴いて頂いている曲も、初めて聴く曲も。全く違う形で、あなたの心に寄り添う曲になるはずだから。
閑話休題。
…というわけで、続き。
常に手首から血が流れるほど自傷を繰り返すようになった私は、いよいよ長期の病休をとることになった。その頃には、障害者医療支援制度なんかも申請し、病院に通う度薬が増えた。
この頃が、一番記憶にない時かもしれない。頻繁に家に見舞いに来てくれていた友人曰く、テーブルや本棚、タンスなんかの家具全てが、キレイに逆さまの状態になったまま部屋の隅っこにいたり、ただひたすらにベランダの柵に腰掛けていたりしていたらしい。今自分で考えても、もはやなんのこっちゃわからん状況である。
両親も気晴らしに遊びに出掛けてくれたり、当時担当していたレギュラーラジオは、ディレクターと相方が番組を回してくれていたり、本当に沢山の人に支えてもらっていた。しかし、症状は一向に改善せず、徐々に薬に頼ることが増えた。
朝昼夕と眠前。処方された薬を飲む。
あとは、不安時の頓服薬を飲む。
しかし不安な気持ちは治まらない。
さらに飲む。
まだまだ治らない。
だから、さらに飲む。
そんなことを繰り返していた。
ある日。どうしても、どうしても辛くて、気付いたら、処方された3週間分、全てを一度に飲んでいたことがいた。
どうしても心が落ち着かなくて、それはもうお菓子を食べるように無心に口に運んだ。
不思議な感覚だった。
右も左も、自分が立っているのかも座っているのかもわからない。倒れ込むのではなく、地面がせり上がってくるような。足元の地面は目の前にそびえ立つ壁となり、それをぐいぐい顔に押し付けられるような感覚。
無重力にいるような、それでいて極太の鎖が体に巻き付いているかのような。自分は今まさに病気なんだと、現実を目の前に突きつけられたような気がした。
そのまま意識は遠のき、戻ると翌日の朝だった。散らかった部屋には薬の袋と自分の吐瀉物が散乱していた。よけい死にたくなった。人間であることを、辞めたくなった。
私の大量服薬は、何度かあった。自宅でも職場でも。それはもう沢山の人に多大な迷惑をかけた。
よく漫画やドラマなんかで睡眠薬を飲んで自殺を図るシーンなんかがあるが、人は大概の量では死ねない。
死なせてもらえなかった。
「迷惑をかけた分、苦しめ」と、頭蓋の奥深くで誰かが繰り返し繰り返し囁いた。
手招きする闇は、どこまで行っても自分の陰を忘れさせてはくれなかった。
初めに倒れてから、浮き沈みを繰り返して結局5年くらい闘病生活は続いた。完全に内服がなくなって、病院に通わなくなったのは23歳くらいの頃だったと思う。その間にも、自分の判断で勝手に薬を断って大変なことになったりもしてたわけだが。
「治ったきっかけは?」
と、聞かれることがある。正直、自分ではよくわからない。なにかあったと言えばあったけど、特になにもなく気長に自分と見つめ合った結果だとも思う。極論、今現在も治っていないのかもしれない。ただひとつ言えるのは、自分自身の心と多少はうまく付き合えるようになった、ということぐらいだろうか。
私が死にたいと思ったのは、真剣に全力で「今」を生きた結果だと思う。
私が死にたいと呟いたのは、醜くても生きたいと願ったからだと思う。
私が死にたいと叫んだのは、誰かに認めてもらいたかったからだと思う。
だから
あなたが死にたいと思ったときは
目の前のことに全力で立ち向かったからで、
あなたが死にたいと呟いたときは
誰よりも強く生きたいと願うから。
だから、
あなたが死にたいと叫ぶときに、
私があなたの一番の理解者でありたい。
軽々しく「気持ちはわかる」なんて、口が裂けても言わないけど、少しでも、あなたの心に近付きたい。
誰だってわかってほしくて
誰だって一人が嫌いで
誰だって、誰かとの繋がりを求めている。
だからこそ、
そんな人生の底にいた自分が頑張ってる姿で
「あいつも頑張ってるし、もう少しやってみようかな」
と思ってもらえたら嬉しい。
だからこそ、
生きることにしっかりと向き合えるような歌が唄いたい。
だからこそ、
「あなたはあなたのままでいいんだ」と、誰よりも強く心から伝えたい。
ただ明るく楽しいだけじゃなくて、明るく楽しい時間があるからこそ、生きることって素晴らしいって思ってほしい。
そんな願いを込めて、私は今日も歌う。
ここから、おまけの話。
少し元気になってきた頃、私はそろそろ自分のためにもなにか動き出さないとなぁと前向きに考えられるようになっていた。
そんな折、友人からの誘いでトレーニングジムに通うことになった。市営の運動施設で説明を受け、会員証を作った。
その時の写真が……もう……ね…

こちら、闘病ど真ん中の私。
前科三犯…みたいな顔しとりますな。
えらいこっちゃ。
こうやって元気に歌っていられるのも、本当に皆様のおかげです。
私は、皆様に生かされています。
ライブでもSNSでも繰り返す言葉だけど、こうやって生きてきた自分だからこそ、心の底から伝えたい言葉です。
これからもどうか!
一緒にワクワクしましょう!!!
見守ってくれてありがとう!
今日も、命燃やして参ります。
今日も、命燃やして歌います。
読んで下さりありがとうございました!
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文:アキラ(大阪を拠点に活動中のシンガーソングライター。最新情報は下記SNSをチェック!)
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