空気階段あるいはオカシイままでいられること【小豆のお笑い豆噺:4(特別編)】|Q-WEST(クウェスト)・関西カルチャー探求WEBメディア

  • YouTube
  • Twitter
  • Instagram

空気階段あるいはオカシイままでいられること【小豆のお笑い豆噺:4(特別編)】

2021. 09. 07 Tue

「小豆のお笑い豆噺」。今回は特別編ということで、イラスト:小豆、文:子守でお届けいたします。

さて。通常ならイラスト+文章を小豆氏に担当してもらっている「小豆のお笑い豆噺」ですが、「空気階段をテーマで書いてー」とリクエストしてみたところ「文章はお前が書けや!」と激昂されたため、今回はワタクシ(子守)が文のみ担当いたします。小豆氏の文章を楽しみにしていただいている方には焼き土下座でお詫びしたい所存。「読んでやってもいーよ」という方、お付き合いいただければサイコゥサイコゥサイコゥ! です。

というわけで「空気階段」である。外見は伝統的「凸凹コンビ」といった風体のコント師。キングオブコント2020では3位、現在進行中の2021でも決勝進出と、コントの実力は折り紙付きだ。
しかしまぁ凸凹なのは外見だけではない。
友達ができず「つまらない」と3ヶ月で慶應大学を中退、約1年半の引きこもりから芸人になった水川かたまりと、今や「クズキャラ」としてもお馴染みになったギャンブル狂で、多額の借金を抱える鈴木もぐら。ここで詳細を書き出すとキリがないので一旦省略するが、各々外見だけでなく、キャラクターも真逆の凸凹コンビと言える。
かたまりの一見スタイリッシュながら癇癪持ちでサイコパスな実態と、もぐらのクズキャラ、おじさんルックスのキャッチーさが、特異な存在感を作り上げている。

空気階段は形式的にはいわゆるボケ・ツッコミというポジション(もぐらがアレなおじさんキャラを演じるネタ、かたまりがサイコなキャラを演じるネタ等)のコントを基本にしながらも、あまり明確な「ツッコミ」が入ることが無い。空気階段のコントではどちらがボケにせよ、ツッコミ側が「なんでだよ!」や「〇〇じゃねーか!」と言った「強いワード」で笑いを作ることはほとんどせず、「うわ、〇〇だ」「〇〇だよ」と合いの手を入れながらも互いのキャラをひたすら泳がせ続ける。ツッコミで笑いのキッカケを作らずに、あくまでそれぞれのキャラクターの異常性で笑わせる。
コンビのラジオ「空気階段の踊り場」においてもまた同様の側面があり、ツッコミで話題を切って終わることがほとんどなく、一つのトピックについて互いの言い分がエスカレートすることが常時で(時にかたまりの癇癪が爆発した結果)本気の喧嘩になり収録が中断したこともあるほどだ。トークにおいても二人の異常性で笑いが生まれる。

世間的にはもぐらの「クズキャラ」が有名なところとなっているが、かたまりの異常性も相当なものだ。
ラジオでのかたまりはひたすら「子供っぽい」生真面目さからもぐらのクズさを責め立てる。対してもぐらは「自らはクズだ」と悪びれることもなく、ある意味で「大人」の立場からかたまりに反論していく。このコンビは、お互いがお互いのことを「コイツおかしい」と思っているのだ。お互いにお互いの「オカシさ」をイジリ倒していく。結果、見ている(聴いている)方からすると「どっちもオカシイ」という不思議な面白さが生まれてくる。空気階段は「どっちもオカシイ」

どちらかがオカシイ(ボケ)のを正していく(ツッコミ)。大抵のお笑い、ひいては世間はそうやって進行していくものだ。「どっちもオカシイ」ままでいられるのは奇跡的だ。
「キャラクターも真逆」と前述した通り、教育熱心な母(もえちゃん)に「金八先生」を武田鉄矢の偽善性を理由として視聴を咎めらる等しながら、その通りに育った偏屈な幼児性を持つ水川かたまり。一方で幼少期から父が借金まみれ、自身もギャンブル等で多くの借金を作り、風俗店でバイトをしていた人生裏街道の鈴木もぐら。境遇としては極端なまでに真逆と言っていい。その「オカシイ」二人が互いに相手の「オカシさ」をイジり、笑い合う。真逆な境遇の「どっちもオカシイ」二人がなぜ並び立っていられるのか。どちらもそれをそのまま曝け出しているからだろう。極端に真逆なままオープンでいられるところが、このコンビをコンビたらしめているところじゃなかろうか。
「どっちもオカシイ」ことを、お互いがイジってギャハハ(時には喧嘩だが)となるのは、極めて奇跡的なことなのだ。「オカシイ」とイジられ、否定されてもお互い自分のことを曲げることはない。二人は「どっちもオカシイ」ままでどこまでも行く。
それにしたって実際のところ、今やかたまりがバツイチ、もぐらは既婚で二人の子持ちだというのだから、世の中分からないもんであるけども。余談ですけど筆者の母は、かたまりの母と同じような志向(ドリフ、バカ殿等見せてもらえなかった)だったので、かたまりにシンパシーを覚えるところではあります(バツイチじゃないけど結果はお察しの通りの人生でございます)。

昨今、多様性だなんだと個人それぞれを「肯定」しようという時代。空気階段は互いのことを「肯定」しない。この二人は全く異なる個性を持つお互いを「否定」しながらも、互いの「オカシさ」を笑いへと変えている。どちらが良いというもんでもないけども、個性の違いを笑い合うこと自体は別に悪いことではないんじゃないかと思えてくる。「オカシイ」者同士、対等にやり合えば良いのだ。言い返せば良いのだ。別に肯定されなくても良いのだ。一歩も引かずに反発すれば良いのだ。口ゲンカくらい臆することなくしても良いのだ。
それぞれ理解できなくとも、理解できないままで笑いあえるくらいのほうが、世の中良いんじゃないかと思う。
筆者も貴方もきっと多分どこか「オカシイ」。そのまま「オカシイ」部分を晒していけたら、サイコゥサイコゥサイコゥ! なんじゃないだろうか。

イラスト:小豆
Twitter:@Kmame
文:子守ぬけがら
Twitter:@miligraph
【小豆のお笑い豆噺】の記事一覧

関連記事

ページトップ